円満離婚なんてありえない!?その②

こんにちは、40代2児のシングルマザーのゆるやまです。

前回のブログの続きです。

最初の年に、私は離婚を切り出して合意に至れなかった話をしました。その時は離婚をいったん諦めて、結婚生活をとりあえず続けていくことにしました。その時に子どもを渡したくないからそれでもしたいならいいよ、と言われたことも離婚を諦めた理由でした。元夫は、あれはいっときの喧嘩のようなものだったのだ、と思っていたように思います。離婚についての話し合いはエネルギーの消耗を伴い、毎日チャレンジできるものではありません。いったん休戦です。

その1年後、また年末がやってきました。その頃の私は「夫源病」と思われる症状にまで悪化していました。

夫源病とは・・・

夫源病(ふげんびょう)とは、夫の言動が原因で妻がストレスを感じ、溜まったストレスにより妻の心身に生じる様々な不定愁訴を主訴とする疾病概念で、医学的な病名では無い。

類似の概念として主人在宅ストレス症候群がある。夫の休日になると妻のメンタルヘルスや体調が悪化する。熟年離婚の大きな原因とされ増加傾向にあると報道された。典型的な例は、亭主関白な「昭和おやじ」の定年退職によって在宅時間が長くなり、離婚に至る。

ということです。『wikipedia』より

私の場合は、子どもたちが登校してから、夫が出勤するまでに時間差があり、30分ほど家の中に2人きりの時間がありました。その時間が苦痛で苦痛で、呼吸がちゃんとできないのです。夫が出勤するために家を出ていなくなると、やっと息が吸えるようになります。これは本当にやばいなと思いました。放置していたら、心療内科のお世話になるようになってしまうのではないかと感じました。

また、その年の年末に、再び私から離婚を切り出しました。そこで、夫の本音が少し聞けました。普段自分が何を考えているのか、など言わない人でした。表面的な会話しかしてこなかったのだと、そこでも思い知らされましたが。

その次の日、???。そこまで夫のことが嫌ではないことに気づきました。夫源病の症状は出ませんでした。こうして、この年も離婚できずに過ぎていきました。

次の年、年末に事件は起こりました。夫にやらないで欲しいと言っていたことをやられてしまったのです。夫は潔癖症、子どもとおもちゃを片付けしていました。とりあえず、分別だけしてもらって、私が好きで購入したものもあるので、捨てるのは私がやるから捨てないでねと伝えていました。ですが、ゴミ袋にしっかり入っており、中を開けてみると、私が娘のため購入した綺麗な古い着物で覆われている小箱が、ズタズタになっていました。これは娘が飽きたら私が使おうと思っていたものでした。夫がやったとのこと。いらないと思ってだそうです。これにブチギレました。悲しみに打ちひしがれました。

夫は謝ってくれましたが、もう無理だと思いました。私の話なんて全く聞いてない。1年前、2年前と何も変わっていないじゃないかと。別れたいと言いましたが、別れたくないの一点張りで動くに動けず、また1年が過ぎました。

そうして、また年末がやってきました。この年だけは離婚の話にはなりませんでした。しかし、私の中には離婚したい気持ちは膨らんでいきました。年が開けて3月。限界がきました。子どもが家にいると話すきっかけが掴みづらく1日1日と過ぎてしまうので、LINEで伝えました。

夫が仕事から帰ってきた時に「LINE見た?」「見たよ」という会話から、外で話をしました。その時も向こうは離婚したくないの一点張りでしたが、私は今回ばかりは諦めないと誓いました。それから毎日毎日話をしました。向こうも折れず、どうしてこんなに話が通じないんだろうと不思議なくらいでした。でも根気強く話し合いを続けました。

合意に取り付けることができたのは、以前夫に言われてとても傷ついた言葉があったのですが、それを伝えてもう無理だと伝えました。夫自身は言ったことも忘れていました。その場で謝ってくれました。ですが腹水盆に帰らず、です。

ここから急速に離婚の動きは加速していきました。

我が家の場合は、時間をかけたこと(結果的にかかった)、最後の話し合いを感情的にならずに話せたこと、相手も自分の非を少しは認められたことがわりと円満に離婚できた理由かなと思います。

私の周りでも、離婚の切り出してから離婚成立までに4年かかったという女性が多いです。そこまでかからずに別居をして、離婚に至っている女性もいます。

以上がざっくりとした離婚合意までの流れです。

離婚に悩んでいるどなたかの参考になれば幸いです。

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